学生時代、24時間営業のファミレスのキッチンでアルバイトをしていた頃、残業するのが大好きだったかずさんです。
今回は珍しく、ごたくを並べてしまっています。
閲覧注意です。
- ファミレスの残業
- おそらく自己犠牲の精神論が好きだと思う
- 日本が特別に自己犠牲の精神が強いという説は本当か?
- 自分に酔っているだけでしょって言われるけど何があかんの?
- 家族や仲間のために頑張ることが当たり前だと思っている自分
- 自己犠牲の精神があれば生きる意味を見失なわない
- 生きることが最優先となったあの日
ファミレスの残業
私は決して、残業が好きだったわけではありません。
では、何故ファミレスの残業は好きだったのか。
それは、明らかに誰かの役に立っているからなんだよね。
24営業のお店は、仕込みと料理を同時に進めなければ料理が出せなくなるんですよ。
本来は仕込みがメインとなるお客さんが入らない時間帯に、予想外に多くのお客さんが入ると、仕込みができなくなり、今はこなせても数時間後に立ちゆかなくなります。
「ごめん、仕込み終わるまで残業してくれないかな」
「今日はありがとう、これ、お礼だから食べていっていいよ」
「あざーーーす」
このやりとりが大好物でした。
これこそ、やりがいを感じる瞬間なんですよね。
急に何の話って思われそうですが、
どうして昔のことを思い出したかというと、この間
病気の家族のためといって誰かに我慢を強いるのはおかしい
と言われ、自分の価値観に気付かされたから。
そこには、知らず知らずに自分の価値観を押し付けるという、最も嫌悪に値する人に成り下がっている自分がいたんです。
※無料素材からお借りしました
おそらく自己犠牲の精神論が好きだと思う
子どもの頃は「忠臣蔵」や「新選組」が大好きでした。
今は「鬼滅の刃(アニメ版)」が大好きで、圧倒的に竈門炭治郎推しですね。
世の中の人々を救うというよりは、妹を人間に戻したい、つまり助けたいという信念が彼の第一義ですから。
映画の「レオン」が好きなのも、生きる意味を失っていた殺し屋が少女を護ることに生きる意味を見出すという設定がぐっと来たんだと思う。
一方で、自分の場合は大きな組織や属性に対しての自己犠牲は大っ嫌い。
会社のため、国のためなんて言われると、
「なんでそんなもののために自分を犠牲にせなあかんねん」って思っちゃう。
でもそれが、世話になった先輩のためだったら、やれちゃうんですよね。
転職したくなるのも、新しく上司になった人のためになんか命はれないって思っちゃうからなんでしょう。
これがおそらく私の価値観であり、原動力です。
日本が特別に自己犠牲の精神が強いという説は本当か?
某著名人が「自己犠牲の精神が賛美されるのは日本だけだ」といったような趣旨の発言をされたと聞いたのですが、本当にそうなのでしょうか。
前述の「レオン」もそうですし、「アルマゲドン」の主人公は世界の人を救うために亡くなってしまう。
「ターミネーター」シリーズは基本、誰かを護るために主人公が活躍するストーリーだし。
日本人だけが自己犠牲の精神が強いとはとても思えないんだよなぁ。
我慢と自己犠牲は違う
日本人が自己犠牲を語る際、「我慢」と混同しているのではないかと思うことがよくあるんですよ。
「相手が嫌な思いをするかもしれないから言わないで我慢する。」
「誰もが嫌だと思うことを率先して行うことでその場を治める。」
「周りの人に迷惑にならないように、やりたいことを我慢する。」
これらはどちらかというと「自己犠牲」ではなく、「我慢」の領域ではなかろうか、と思う。
そう考えると、前述した某著名人の言葉も、「自己犠牲」を「我慢」に置き換えると、とてもしっくりくるように思える。
美人コンテスト理論
最近YouTubeで聞いた話
美人コンテストを開催すると、各々が自分が一番美人だと思う人に投票する。
しかし、美人コンテストで一位になりそうな人の投票になると、皆が選びそうな人に投票する。
その人は、誰にとっても一番ではないのかもしれない。
最近のTVや映画は、作り手の思いではなく、広く受け入れられそうなマーケティング理路運によってつくられているため、結果として誰にとっても面白くない作品になってしまっているのではないかというのだ。
これこそ正に、日本人の行動特性を表しているんじゃないかと思う。
つまり、誰もが忖度して行動しているがゆえに、誰にとっても良いことではないことが選択されて、皆が我慢しているという構図であるわけです。
自己犠牲という名の我慢を強いられ、結果誰も幸せを感じられていないんじゃないかなぁ。
居酒屋が流行らなくなった理由
コロナ以降、居酒屋が苦境を迎えているそうですね。
特に居酒屋という業態が、です。
居酒屋に行くという選択肢って、正に美人コンテスト理論なんじゃないかって思うんです。
つまり、それぞれに食べたいモノが違っているから、皆が不満を持ちにくいお店って考えると、いろんなジャンルのメニューがある居酒屋であれば、一つくらいは食べたいモノがあるんじゃないかっていう発想。
しかし、コロナ以降は大勢の飲み会などが減ってしまい、数名の飲み会が増えたみたいなので、そのくらいであれば皆が食べたいモノが決められるってわけ。
焼き鳥屋に行こうとか、イタリアンに行こうとか、お好み焼き屋さんに行こうとか。
誰もが満足するからという理由で選ばれていたはずなのに、実は誰も満足していなかったのではないかって思いました。
そういう私も、居酒屋に行きまくっていましたが、今は行きたくありません。
自分に酔っているだけでしょって言われるけど何があかんの?
ドラマのセリフとかでよく、
〇〇さんのため、なんてみたいな顔してやっているけど、本当は人にやさしい自分に酔っているだけでしょ!
私のためになんて言いながら、本当は自分のためでしょ!
みたいなシーンがあるけど、あれって何があかんの??
自分勝手にやっていることが、相手に迷惑になっていたり、恩着せがましく言ったりしているのであれば問題なんだろうけど
ありがたいと思えるような行為なんだとしたら、自分に酔ってるだけだってええやん。
それがやりがいであり、モチベーションなんだよ!!
って思う。
映画「レオン」をみていない人をおいてきぼりにしちゃうんだけど
殺し屋は少女のためだなんて一言も言わない。
殺し屋は少女に関わらなかったら〇ぬこともなかった。
あくまでも殺し屋が勝手にやったことであり、自己満足。
それで幸せだったらええやん。
自己犠牲に相手から「迷惑なの」って言われたら、それはあかんけどさ。
周りがいうことないんじゃないかな。
家族や仲間のために頑張ることが当たり前だと思っている自分
本題に戻りますが、
病気の家族のためといって誰かに我慢を強いるのはおかしい
と言われた直後は、何故そんなことを言われるのか、意味がわからなかった。
家族や仲間のための自己犠牲は当たり前だという価値観の中で生きてきて
それを他人にも要求する自分がいたんだろうって思う。
自分は我慢しているとは感じていないけど
大事な人が病気でいないことで苦しいし、寂しいのに
どうしてさらなる我慢を強いられなければならないのか?
子どもであればなおさらである。
自己犠牲の精神があれば生きる意味を見失なわない
2023年に発表された世界保健機関のデータによれば、、G7各国の自殺死亡率て、「日本」は16.4と7カ国の中で最も高かったようだ。
「アメリカ」(14.1)が2番目に高く、その後「フランス」(12.6)、「ドイツ」(11.1)、「カナダ」(10.7)、「イギリス」(8.2)、「イタリア」(6.3)となっている。
極論だとは百も承知だが、戦時下や災害時でもない限り、自己犠牲の精神で〇ななければならないことは、現代社会では発生しない。
むしろ、自己犠牲の精神があれば、誰かのために生きようと思う筈ではないか。
親のため、子どものため、友達のため、お客様のため、なんでもいい。
誰かのために生きようって思うのではないだろうか。
しかし、「自己犠牲」ではなく「我慢」なのだとしたら、我慢しきれなかくなって、自〇へと導かれても不思議ではない。
生きることが最優先となったあの日
〇〇のためなら〇んでもいいって思うのと同じように、
〇〇のために生きなければならないと強く感じたあの日。
嫁さんが長期入院となった時、ふと街中で今自分が車にはねられてしまったら、子ども達はどうなるんだろうって思って、めちゃめちゃ怖くなった。
それまで見てみぬふりしていた体調不良を解消するために医者も行ったし
信号待ちをしている時は、車が突っ込んできたとしても避けられる体制を常にとった。
行動のすべてが生きることが最優先になった。
お酒の量もめちゃくちゃ減らした。
それは決して我慢なんかじゃない。
自己犠牲なんて思ったこともない。
生きていることが、自分の生きる意味なんだと感じていた。
なんだかんだいって人間は
人とのつながりが生きている意味なんじゃないかと思う。
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