地元を離れて30年以上、戻る気はないが地元を愛すかずさんです。
我が出身地、愛知県・名古屋市はジブリパークができたことによって、観光地となる千載一遇のチャンスを迎えています。
そこで今回は、ジブリパークをゆっくり楽しみたいと考えて宿泊で来られた観光客の方に、ぜひ観てほしい地元の観光地を案内していきたいと思います。
第一弾は名古屋城・本丸御殿です。
ちなみに本丸御殿とは、藩主の住居・政庁のために建てられた建造物のことです。
その中でも「上洛殿」は、将軍・徳川家光の上洛に合わせて、寝室や浴室・トイレなどが建造された、最も格式の高い建物なんですよ。
地元にも不評だった旧名古屋城
金のしゃちほこは有名ですが、名古屋城自体は正直、地元の人たちにもあまり愛されていませんでした。
お城マニアであれば、むしろ近くにある犬山城の方が有名で、名古屋城にわざわざ来る人なんていなかったですね。
でも実は、第二次大戦前の名古屋城は、それはそれはきらびやかなものだったようです。
1615年(慶長20)に完成した御殿の内部は、豪華絢爛な障壁画や飾金具などで飾られ、近世城郭御殿の最高傑作とたたえられるほどでした。
1930年(昭和5)には、姫路城よりも早く国宝第一号に指定されています。
しかし、第二次世界大戦の空襲ですべて焼けてしまいました。
戦後、市民の寄付などによって復興された鉄筋コンクリートの天守閣は、以前の姿とあまりにもかけ離れていたようで、市民からも不評だったようです。
私も「尾張名古屋は城で持つ」なんていう唄はあるけど、しょぼいやんって思っていました。
そんなんじゃ、外から観光客が来るわけないですよね。
奇跡の復元が実現したのは城主が写真マニアだったおかげ
最後の名古屋城主であった尾張藩十四代藩主「徳川慶勝」ですが、この人相当な写真マニアだったようです。
「安政の大獄」によって隠居させられる、という憂き目にあい、それから写真に没頭し、お城の写真を撮りまくっていたようです。
江戸時代の図面や記録、昭和戦前期に作成された実測図などが焼けずに残っていたわけですが、この中になんと写真が400枚以上ありました。
図面だけではどうしても細部まではわからないですが、写真と照らし合わせることができたので、細部まで復元することが出来たんですね。
反抗心が豪華絢爛の本丸御殿を生んだ?
徳川御三家(尾張、水戸、紀伊)の中で、尾張藩は一番格式が高い家柄だったのも関わらず、将軍は一人も輩出していません。
「※将軍」「享保の改革」「暴れん坊将軍」で有名な八代将軍吉宗と、最後まで将軍の座を争ったのが、実は尾張藩主である宗春でした。
家柄は紀伊藩より尾張藩の方が上ですので、当然尾張藩主である宗春が跡目を継ぐと思われていたのですが、跡目争いに敗れてしまいました。
その後宗春は反抗心からか、質素倹約をうたう「享保の改革」に真っ向から反発し、芸や技術の発展に財を投じたのだそうです。
名古屋城が豪華絢爛であったのも、その伝統が脈々と生き続けていたからだと思います。
入り口は、質素倹約と言えなくはない様相なのですが、
一歩足を踏み入れると豪華絢爛
写真がを基にしただけあって、装飾のひとつひとつの細やかな部分まで再現され、至るところに芸術作品があふれています。
江戸時代の木造建築を忠実に復元しようと、約10年もの歳月をかけ工事を行ったのはだてではありません。
こういった金色に輝く飾り金具など、その装飾1つ1つがとにかく美しい
壁の彫刻、すごくないですか?
いやぁ、私のつたない写真では伝わりきらないでしょう。
ぜひ、こちらの渾身のHPをご覧ください。
石垣をよーーく観てほしい
次の見どころとしてはなんといっても「石垣」です。
名古屋城の築城にあたり、各大名が切り出した石が誰の持ち物なのかわからなくならないように、印をつけていました。
ほとんどの大名は〇や△を組み合わせたような単純な印だったのですが、加藤清正だけは家臣の名前を刻ませていました。
熊本城の築城が1606年でしたので、加藤清正はほとんど休みなしで城を作っていたみたいですね。
家臣たちもずっと遠く離れた地で働いていたのでしょう。そんな家臣たちの労苦に報いるために行ったのですね。
今でも石垣にはその印が残っています。運が良ければ加藤清正の男気を見つけられるかもしれません。
いかがでしたでしょうか。
歴史好きにとってはもちろん「ウハウハ空間」ではありますが、装飾品や彫刻などの芸術好きな人にとっても「ウハウハ空間」であることに間違いありません。
ジブリパークへの旅行を計画している方、ぜひ愛知県・名古屋市に一泊して名古屋城・本丸御殿を堪能してみませんか。
総工費150億円はだてじゃぁないですよ。
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